荷物を軽くしたい

転勤族、賃貸住まい。夫、高校生と小学生の子供の4人家族。引っ越しを楽にしたい&家事を手抜きしたいというズボラ心から物の取捨選択に励む記録。

名菓を食べて、曾祖母を思い出す

週末に、実家から野菜とお菓子がたくさん届きました。

 

幼少期、この中にある「博多の女(ひと)」が大好きでした。

 

やだ懐かしい!

何十年ぶりに食べる!?

 

心ウキウキで食しました。

 

 

私の両親は共働きでした。

40年前は専業主婦が多い時代だったので、少数派。

 

保育園に預けられ、素敵な先生たちに囲まれて過ごしました。

(先生たちも園も好きすぎて、大きくなったら保母さんになりたい!と言っていました^^)

 

普段は母が迎えに来てくれていましたが、母の迎えが閉園時間に間に合わなさそうなときは園バス帰宅。

自宅に帰っても誰もいないので、歩いて数分のところにある父方の祖父母宅に園バスが止まってくれていました。

祖父母はふたりともちょっと特殊なお仕事で、平日はずっと家にいなかったので、祖父母の代わりに曾祖母が祖父母宅に住んでいました。

 

 

曾祖母は九州生まれの九州育ち。

忙しく働く娘夫婦のために、遠路はるばるやってきて、孫(父たち)やひ孫(私たちやいとこたち)の世話をしてくれていたのでした。

 

九州に住む親類たちが遊びに来るときにはいつも、この「博多の女」をお土産にもってきてくれたんですよ。

 

 

「博多の女」が誕生した昭和47年は、山陽新幹線が開業する3年前。
二鶴堂の創業者 橋本富市は、「新しい時代にふさわしい和洋折衷の味を」と思案し、
和の羊かんと洋のバームクーヘンの組み合わせを思いつきました。

「博多帯締め筑前しぼり あゆむすがたが柳腰」
博多節の一節をイメージして博多人形店を見てまわり、
やっと見つけた人形が包装紙を彩りました。

昭和47年からずっと、
博多土産の定番となったいまも、
積み重ねた経験とデータをもとに「もっとおいしく」を追い続けています。

 

博多の女|博多菓子工房ニ鶴堂

 

そう、和洋折衷。

ちっちゃいバームクーヘンの中にあんこがみっちり入っています。

私の幼少期はそんなにお菓子の種類ってなかったので、当時の私には斬新な組み合わせ。

初めて食べた時は

「なんだこれ!おいしすぎ!( ゚Д゚)」

と衝撃が走り、たちまち虜になりました。

 

「博多の女」を見ると、曾祖母を思い出します。

 

園バスの中から、家の前で ひぃばあちゃんが手を振ってるのが見えてたな。

 

園から帰ってきたら、ストーブで焼いたサツマイモとか、お汁粉とか、季節の果物のおやつを準備してくれていた。

 

夏みかんとかはっさくとかは皮をむくのが難しかったから、いつもキレイに皮をむいて口に入れてくれてたっけ。

「つぎは私が食べる!ちょうだい!」

って弟と燕みたいに口開けて待ってたな。

「皮むくのが間に合わんよ」と、ひぃばあちゃん笑ってた。

 

母の帰宅が夜遅くなる時は ひぃばあちゃんの家で一緒に寝て待っていたけど、日本人形が怖くてなかなか寝れなかった。

 

私を自転車の後ろカゴにのせて(入れて?)漕ごうとしたけど、思いのほか私が重くてバランスを崩して、ひぃばあちゃんと一緒に倒れたんだよね。

(昔は自転車の後ろに子供用のイスなんてなかったからね)

で、私が大泣きして、ひぃばあちゃんがオロオロして

「ごめんねーごめんねー痛かったねー」

と何度も謝っていた。

 

料理上手で、ユーモアがあって、いつも温かかった。

 

サザエさんに出てくるフネさんみたいに、いつも着物を着ていた。

 

お菓子ひとつで、ここまで思い出が色鮮やかによみがえってくるとは。

食べ物って記憶とすごくつながっていますよね…。あ、音楽もかな。

 

 

曾祖母のモノはわずかですが残しています。

写真が数枚、年賀状が数枚、手紙が一通。

いま手元にはなく、整理した状態で実家に置いています。

 

www.ashitakirei.xyz

 

モノはたくさんなくても大丈夫。

なんなら、目の前にモノがなくてもこのお菓子を見ただけで記憶がよみがえって、あったかくて幸せな気持ちになれた。

 

思い出の品は、厳選して、整理して置いておく。

それだけ充分、事足りる。

 

子どもの作品がなかなか厳選できない自分へ、言い聞かせています。笑

 

 

 

 

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